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| 轟理論 「稽古の基本」
2004/1/6
基本という言葉からは、型の反復練習を基として、上達していくことをイメージするのが 一般的かも知れません。 しかし、私は、基という出発点ではなく「合氣とは愛なり」という 結論を目標とすること。 合氣万生道の精神を目標とすることができること、が基本である。 と考えます。 合氣万生道では、それが前提というべきでしょう。このことを了解した人は、 稽古を永く続けられるように思います。 体的な反復動作のみを基本と考えた場合は、 いつの間にか相手を自分の型にはめてしまい、 技が効かなければ体力が手伝うことに なってしまいます。口先でいくら精神を唱えても、 体技として出てくる技が相手をして 体力で頑張らせてしまうものであるならば、 それは、「合氣万生道の精神」に違う(たがう) ことになりますから、「この方法は、おかしいな」と氣付き、 修正しようとします。 もっとも、自分が氣付くより先に相手は判っているのです。 反省があれば、 未熟ということで、いつの日か熟する日が来るかも知れません。 呼吸力を養成することが稽古だと思います。相手を動かそうとする心でいる間は、 体力しか出てきません。 例えば、相手に抵抗感を与えない。相手が頑張らない。 自分が頑張るから相手が根性を出して 頑張るということがあります。自分が頑張らせている。 このことだけを考えて稽古してもずいぶん氣付く点があります。 ほんの僅か、筋が張っても力んだことになります。 呼吸力にとって、力が抜けていることは、 基本と言えます。抜くことより抜けている事。 日向道場では、「自分は、力が抜けている」と誰も口にしません。小学生の手を取って、 力の抜けた状態がどんなものかを知っています。 私も、こうありたいと願いつつ小学生の手を取らせてもらっています。 そして、力が抜ける源が心の問題だということも知っています。 感覚の問題だとしても、それを感じ取るのは、 相手です。まかせること。 稽古に於いて、相手に抵抗されながら動かしたところで相手がたまたま体力がなかったか、 つかんだ指が痛かったか、止めたところで、馬鹿馬鹿しいと思われているかも知れないのです。 取られた瞬間が大切なのに、手を取らせた後のことについていろいろご託を並べる そのこと事態は嘘だと思います。 瞬時に勝負は付いています。取ったか捉えられたか。 (付録) 目薬の一滴がまさに目に落ちようとしている。もはや脱力しています。 薬液が目に触れた瞬間。これは瞬間といえます。相手の皮膚に触れた瞬間。 単に力を抜くのは、二階から目薬を注すようなもの。目薬は、目に注します。結び。 眼の中で広がった薬液は、瞼をパチパチしても元には戻りません。まかせる。 両手で手をたたくと、音が聞こえます。音が聞こえている時間を稽古します。 |
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